ミスティック 福田 登志雄 マスター TOSHIO FUKUDA
神奈川県横浜市出身。大学卒業後、就職経験を経て退職後はアメリカやオーストラリアなど世界中で働きながら暮らす。1989年、両親が営む履物店「福田屋」の2階にライブハウス「ミスティック」をオープン。(JR横浜線「中山」駅 徒歩2分)
神奈川県横浜市出身。大学卒業後、就職経験を経て退職後はアメリカやオーストラリアなど世界中で働きながら暮らす。1989年、両親が営む履物店「福田屋」の2階にライブハウス「ミスティック」をオープン。(JR横浜線「中山」駅 徒歩2分)
子供時代、テレビでアメリカの暮らしを特集した番組をよく観ていた影響で、その頃から「エキゾティックな海外の暮らし」みたいなイメージでの憧れを持ち続けていました。一方で、父に胴を作ってもらい剣道をさせられ、日本男子たるもの侍の魂を持て!武士の道を生きろ!と育てられました(笑)そんなわけで大学卒業後に就職したのですが、やはり頭の中はアメリカの西海岸と波乗りでいっぱい、どうしてもアメリカに行きたいという気持ちを抑えらず、たった1年ちょっとで退職し渡米してしまいました。帰国後は企業に就職しましたが、また資金を貯めて海外に飛び立ちました。地元で友達になった現地の人に直接「仕事をが欲しい」と頼んで、ガーデナーやCrossent&Cafeの職人、レストランのウェイターなど色々な仕事をしながら現地で暮らしていました。その頃はまだお店をするつもりはなかったのですが、ポスターとかオブジェなどが好きで世界各国で集めていました。帰国後は、「コレクションをお店で売るといいのでは」と知り合いにアドバイスを受け物販を始めることにしました。それが実家の履き物屋である「福田屋」の2階だったんです。そうは言っても、どれも思い入れがあるのであまり売りたくなくてね(笑)。そうこうしている内に、ここに集う方たちが、「もっとここで過ごしたい」ということで、飲み物を持ち込んでくつろぐようになり、自然派生的な形で音楽仲間も集うようになってライブハウスになったんです。
祖父の代からが営んでいた「福田屋」を父は継いで欲しいという想いがありましたが、僕はアメリカに夢中だったし、父の思いを心の片隅におきながらも自由奔放に過ごしてきました。父と揉めて喧嘩もしました。「男がガタガタぐちゃぐちゃ言うんじゃない」という感じだったな。今となれば父ともっと一緒に色々やりたかったと思います。父は18歳で海軍に入隊、間もなく戦争が始まり青春時代を航空艦で過ごしました。僕は世代的にも「戦争反対」と学生運動に参加したりしていたので、戦争を経験した父に反発するところもありました。そんな父が足がおぼつかなくなってきて、ある日、戦没者の慰霊のための外出に同行したことありました。その時、父は父なりに戦争で苦労していたことに改めて気付き、父に反発してた気持ちも変わりました。父が死んでからは、毎朝「ありがとう、ごめんね」とお線香をあげて話しかけています。今年94歳になった母は優しく愛に満ち、大学時代は文学少女だったと聞いています。私が10代の頃、母に習い一緒に草履の鼻緒をすげていたとき、詩歌を詠んでいたことを思い出しました。両親とも早朝から夜中まで一生懸命働いていました。そんな両親の想いのこもった「福田屋」も大切に残していこうと思いました。
元々、ここには自分の楽器が色々あって、仲間が集まると自然にセッションをするようになってきました。そのうちにミュージシャンからも「ここでライブをやらせて欲しい」と声がかかるようになったのです。それでライブをするようになりました。また、ただライブをするのではなく、自分の目指す方向の音楽に絞るようにしています。自分の好みってことなんですけどね(笑)。どこかに良い人がいないかなぁと思っているうちに、上質な音を探求されてきて、真剣に音楽に向き合われているミュージシャンとご縁が生まれて、そこからさらに輪が広がっていきました。例えば、ジャズを演奏する人、中近東の方の楽器を演奏する人と、フラメンコ系の演奏をする人が一緒にユニットになってセッションをするなど、枠にはまらないようなライブをしてもらえるようになりました。ここからもユニットが生まれています。「こんな面白いギターリストがいる。この人と演奏をしたいんだけど、やはりミスティックで演奏がしたい」と言っていただけることが増えて、おかげさまで世界が広がってきました。
音楽理論的に枠組みを決めつけたり、音楽学校で習ったことをそのまま演奏するような人は、あまりここではいないんです。個性的で技術の高いミュージシャンがここを面白がってくれて、さらにそんなアーティストをまた呼んでくれます。ここで、ミュージシャンがどんどん変化していく姿を見るのもまた楽しみです。みなさんが「福田さんのここでライブをやりたい」と言ってくれるのが本当にありがたいです。他のライブハウスでは「うちのお客さんはこんな客層だからこんな演奏をしてほしい」というリクエストをする所もあるようですが、僕はここで、色々な新しい取り組みをして欲しいと思っています。そうでないと演奏する方も面白くないでしょう?ここに集うミュージシャンからすごく刺激をいただいて、学ばせてもらっています。
何を美しいと感じるのは人それぞれだと思います。ポスターを飾ること一つにとっても、この5ミリ位置が違うなと思ったら、やっぱり気になってしまうし、自分の気持ち良いと思える所に置いてあげたいと思うんです。実はお店のドアもこだわって、工務店にお願いしたものの、納得いかなくて、また自分で作り直しました(笑)自分の感覚を大事にして、この空間が出来上がているのかな。自分が生きている限りは、この場所は祖父の代から続いているし、父達の想いを残していきたいと思っています。大きいことをしなくても、せめて気持ちで返していきたいです。自分は好き勝手なことして生きてこられたのも、両親のおかげですね。父が逝ってから尚更そう感じています。毎年恒例の街のイベント「中山祭り」の時には、通常は2階でやっているライブを数年前からは朝から夕方まで1Fで開催しています。なんとなく面白そうだと気になってのぞいてくれた人が「こんなところでこんな音楽が聴けるとは思えなかったよ」と驚いて帰っていかれることもあります。小さなお子さまを抱かれたご夫婦がいらしたり、思春期頃の子が熱心に聴かれていったり、杖をついた年配の方がいらしたり・・・。より多くの皆さまに音楽を楽しんでいただけたらと思います。ライブハウスを立ち上げ当初は、「この地域で文化的なことをやっても難しい、受け入れられない」と言われることもありましたが、34年続いています。ちょっと変わっているお店で入りにくいと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、一度来られるとずっと長く通われるお客様が多いんですよ。学生時代から来ていて、お子さん2人、3人と生まれてからもご家族で通ってくださる方もいます。ここに来たら何か気づきが生まれるような、そんな場所であり続けたいと思います。
※上記記事は2023年11月に取材したものです。
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